僕の妻の兄貴の話をしようか。
高校の時の親友だった彼から久しぶりに連絡があったのは、二年前の今ごろのことだった。サルビアの青い花が野原いっぱいに咲き乱れていた。
二人は、高校を卒業してから一年ほどは、お互いの家に遊びに行ったりしてよく会っていたが、あいつは大工、僕は実家の商売を手伝って忙しく働いているうちに、段々会うことも少なくなっていた。呼び出しがあったころには、もう半年以上も会っていなかった。夕方待ち合わせをして、一緒に近くの食堂に行って晩ご飯を食べた。
「ビール、飲むか」。椅子に腰掛けるや、彼が言った。
「え、普段は飲まないよ」
「俺もさ。だけど、飲んでみようよ。いいじゃないか」
「ああ」。小さな瓶に入ったビールを、コップに注いで飲んだ。
「やっぱり苦いもんなんだな。初めて飲んだんだ」と彼がにっこり笑いながら言う。この年になるまでビールの味も知らないとは、やっぱりこいつは真面目なやつだ。僕はさすがに味くらい知っている。ところが、やつは「もう一本」「もう一本」と注文しては、一人で三本空けてしまった。真っ赤な顔になって、大しておかしなこともないのに、「はははっは」とやたらと笑う。笑い上戸らしかった。三本目が空になると、いたずらっぽい笑顔で言った。
「なあ、学校を見に行かないか」。
夜の帳も落ち、町の外れにある僕たちの高校は闇の中に沈んでいた。コンクリートの壁で形ばかり囲まれた、二階建ての四角い建物だ。古びたレンガ造りの壁はひび割れ、修理する者もいない。卒業して何年も経っていないのに、思ったよりも小さく、よそよそしく見えた。壁が壊れて低くなっているところを乗り越えて、敷地の中をぶらぶらと歩いた。彼は酒臭い息を吐きながら、途切れもなく話し続ける。
「高校にいる時は、学校なんて何てうっとうしいものかと思っていた。卒業すれば、もっと大きな世間で、色々なものを見て、色々なことをして、と思っていた、だけど、何をやってもそう簡単じゃない。今はご覧のとおり、ひどいことばかりじゃないか。俺たちが学校にいたころは、こんなことになるなんて思わなかったよ。小さな建物の中だったけど、仲間がいて毎日毎日楽しかったな。今となっては、全部が大切な思い出だ。どこに行っても、この学校のことは忘れないだろうな」。
高校の仲間の間で、彼はちょっとした英雄だった。成績がよくて、サッカーが抜群にうまい。誰にでもやさしくて、正義感が強くて、行動力もあった。学校の備品を盗んだ友達が放校になったのに抗議して、授業ボイコットを呼びかけたこともある。皆も同調したのに、最後は一人ですべてをかぶった。自分も放校になりかけたが、彼のことを好きな先生が多くて、校長にとりなしてくれた。そんな彼、周囲の皆に慕われていたこいつが、こんなに後ろ向きのことを言うなんて。
「そんな、弱気になって昔のことばかり言うなんて、お前らしくないぞ。大学に行けなかったのが、まだ悔しいんじゃないのか。そのうちに状況が変わったらきっといけるって、お前も言ってたじゃないか」
「いや。。。大学なんて、いいんだよ、もう」
「何を言っているんだ。馬鹿言うな。みんなお前に期待してるんだぞ」。つい怒鳴ってしまった。そんな僕の様子を見て、彼は戸惑ったようだったが、やがて微笑を浮かべて
「俺が悪かった。愚痴ったりして。そうだな。そのうちにきっと行けるよな」と言った。
僕たちがいつも使っていた教室の側に来た。僕たちは窓の桟に手をかけてよじ登ると、ガラスに顔を押し付けて中を覗いた。暗闇の中に浮かび上がる教室の様子は、何も変わっていなかった。
「なあ」と彼が言う。
「ファティマ、どうしてるのかな」。ファティマというのは、同じ学年の女の子だ。物静かで、いつもベールを目深に被って本ばかり読んでいるような子だったが、彼はファティマが好きだと僕に打ち明け、ある日学校の帰りに待ちぶせて、熱烈な詩を書いた手紙を渡した。でも二人とも照れ屋なので、その後ほとんど進展はなかったようだ。
「さあ。。。」本当は僕は知っていた。ファティマは来月、隣町の家具屋のところに嫁入りすることを。でも、彼には言えなかった。「可愛い子だったな」。彼がそっとつぶやいた。
学校を探検し終わり、二人の家の方向へとゆっくりと歩いた。夜の街は人もまばらだ。みんな家の中で息を潜めているのだろう。僕も、普段は夜あまり出歩かないようにしていた。銃を肩から下げたイスラエル兵の乗ったジープが僕たちを追い越していった。歩きながら彼が言う。
「最近君が来なくなって、ウズマが寂しがっているんだよ」。ウズマというのは彼の妹だ。「あいつ、君のことが好きみたいなんだ。なあ、よければ時々、顔を見せに来てやってくれないか」。それは僕としても、気になっていたことだった。
「ああ、ぜひ行くよ。お前に会いに行くから、その時会えるよな」
「え?。。。ああ」そう言うと、彼は深いため息をついた。
家の近くの分かれ道に差し掛かると、彼は僕の肩を叩きながら言った。「今日は会えて嬉しかった。色々話せて、よかった。さっきは、『大学なんてどうでもいい』と言った俺を叱ってくれてありがとう。君はいつまでも俺の友達だ。どうか、元気でな」。周囲は暗かったが、彼の目の中に涙が光るのを僕は見た。不吉な予感が僕を捕らえた。僕は彼の両腕を強くつかんで
「なあ、また会おう、すぐ。今度お前の家に遊びに行く。いいよな。いいな」
「。。。。」
「何で答えないんだ、ハキム。約束するまで離さないぞ。今度の金曜日だ。きっと会おう。いいな」と体を強く揺さぶると、
「。。。ああ、いいよ。会おう。今度の金曜日だ。約束する」
「きっとだぞ」
「もちろんだ。そうだ、きっと会う」とハキムは僕の目をしっかり見て、約束した。その言葉を確かめるようにして、二人でうなずきあった。そのまましばらくお互いに見詰め合っていたが、そっと手を離すと、彼は左に、僕は右にと歩き出した。姿が闇の中に消える直前、ハキムは手を大きく振って、思い切り大きな声で、「君の上に平安がありますように(アッサラーム・アレイコム)」と言った。
彼の約束は果たされることがなかった。木曜日の朝、乗客でいっぱいになったエルサレム45番線のバスの中で、彼は死んだ。鞄の中に入れたダイナマイトに点火して。多くのユダヤ人を道連れにして。